観月さんが言うには、天使とは天からの使いのことらしい。読んで字のごとくだったので、そんなことはわかっていますけど観月さんはなにが言いたいんですか、というようなことを少しばかりオブラートに包んで訊ねてみると、曰く、要するに天使は電車になんて乗らないということですよ、と諭されてしまった。妙に同情するような視線を向けられたことには思わず腹が立ってしまったけれど、観月さんを相手に腹を立てたところで私の気持ちなど理解してくれるようなひとではないので。






***




あの後、芥川さんの試合が終わり、樺地さんの案内を受け温かい部室(というには些か広すぎ、そして豪奢すぎる部屋だった)の一角にあるふかふかの椅子に座り、跡部さんと少しお話をした。それから15分ほどでもといたフェンスまで戻ってきたのだけれど、私が戻るなり、不純な偵察の女の子たちはきらきらと目を輝かせ私をぐるりと取り囲んだ。彼女たちは楽しそうに、高揚を抑えられないといった表情で、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。もちろん、跡部さんに関することだ。羨ましそうな顔はされても、誰一人妬ましそうな顔をしていないところを見ると、なるほどやっぱり彼は素晴らしい人なのだなと思う。
そんな素晴らしい跡部さんが、他校の、しかも名ばかりのマネージャーもどきに何の用かと思えば、こう言ってはなんだけれどひどくつまらないお話で。
いや、つまらないと言ってしまうとまるで跡部さんのせいのようなので撤回しておく。つまらないのは跡部さんではなく、観月さんだ。

「『無事にそちらへ到着していますか?』だとよ」
「え?」
「ずいぶんと過保護なマネージャーだな」
「あ・・・いえ、昨日ちょっと」
「あん?」
「電車を乗り過ごしてしまって。反省文を書かされたんです」
「反省文?なんだそりゃ。面白いことしてんじゃねーの」
「面白くないですよ!」

ひとしきり観月さんへの愚痴をぶちぶち零し、ふう、と息をつくと、跡部さんが少し笑いながら「満足か?」と訊くので、いつもショーを楽しみに不純な偵察にいそしむ女の子たち気持ちが少しわかったような気がした。
ロイヤルミルクティーのカップを慌ててソーサーの上に置き、大きく頷くと「なら、本題だ」跡部さんがゆっくりと息を吐くように言った。

「ジローが礼を言いたいんだとよ」

いったい私が彼に何をしたというのだろう。






***




幼いころに読み聞かされた眠り姫のイメージは、数ある童話のお姫さまの中でもいちばんお淑やかなイメージがあった。物静かで、滅多に口を聞かない、世間知らずのお姫さま。きっと彼女は、王子さまのキスでも目覚めなかったんじゃないだろうか。

跡部さんがあんなことを言うから、私はすっかり気分が落ち込んでしまった。落ち込んでしまった、というよりもそれまで芥川さんの楽しそうなテニスを見ることができて幸せいっぱい夢心地だったのに、突然現実の世界に引きずりおろされてしまった気分だった。観月さんの嫌な笑い方が目に浮かぶ。
嬉しくないわけがなかった。
けれどそれよりも、芥川さんを近くで見ることに対する緊張と、何か変なことを口走ってしまわないかという不安の方がずっと大きかった。楽しそうな芥川さんと、楽しそうな芥川さんのテニス。それだけでじゅうぶん大好きなのだ。その中には、「私にお礼を言いたい芥川さん」は含まれていない。

さて、私が彼にどんなお礼を言われることをしたのか、考えてみても思い当たる節はひとつも浮かばない。唯一、無理やりこじつけられるものがあるとするなら、この偵察という名の応援くらいのもので。けれど応援にいそしむ女の子は何も私だけではなく、跡部さんは別格にしたって、何も私だけが特別に芥川さんのことを好きなわけではきっとないのだ。
それに、私には芥川さんがわざわざ跡部さんを介してまでお礼を言うようなタイプにはどうにも見えなかった。

「ルドルフのマネージャーさん」

目的を同じくする不純な偵察の女の子たちは私のことをそう呼ぶ。私も彼女たちのことを、立海のマネージャーさんと呼んだり、山吹の1年生ちゃん、と呼んだりする。今声を掛けてきたのは銀華のマネージャーさんで、ここのところよく話をする機会が多い。彼女は一つ下の日吉くんが目的らしい。次期部長と噂されている彼は個性的なテニスをする。

さっきあなたが跡部さんのところへ行っていたときにね、と始まった情報交換会で彼女は私の知ることができなかった時間の芥川さんの話を聞かせてくれた。私は芥川さんの試合が終わった後、勝っても負けても楽しそうにぴょこぴょこ飛び跳ねながらベンチや、あるいは部室へ消えていくのを必ず見届けるのだけれど、さっきはまた戻ってきたらしかった。何が目的かはわからなかったが、フェンスのこちら側を見上げてきょろきょろしていたらしい。惜しいことをしたな、と思う。フェンスのこちら側に興味を向ける彼を私はそれまで知らなかったので、もしかしたら目が合うかもしれなかったのに。勿体無いことをした。 フェンスの周りを一周ぐるとしただけで、彼は戻っていったらしい。探し人でもいたのだろうか。フェンスのこちら側には目的が同じ女の子と、そしてときどきスカウトの人がいるだけだというのに。

彼に見つけてもらえるなんて、世界一幸せな瞬間だと私は思う。






***




芥川さんがぴょこぴょこと飛び跳ねるたび、私の心臓もそれに合わせて何度も何度も飛び跳ねる。楽しそうな彼が大好きで、楽しそうな彼を見ているとこちらも楽しくなってくるのだ。

礼を言いたいんだとよ、と言われたものの実際にいつどこで言ってもらえるのか、そういった話を跡部さんはしてくれなかったので、具体的に何をどうすればいいのかわからなかった。今日の芥川さんの試合はもう終わりで、時計の針が動くたびに観月さんの小言がひとつ頭に浮かぶ。今度は、いっそ彼もいっしょに偵察しに来たらいい。
跡部さんの姿も見えず、観月さんからのメールが3件と着信が2件来たところで、フェンスから手を放した。日も傾きかけて、空気はひどく冷たくなっている。このままでは凍えて死んでしまう。東京でそんなことになろうものならきっと観月さんも呆れて何も言えないだろう。

大きな門をくぐり抜け、氷帝学園を後にする。早足で駅に向かっていると、少し前を見たことのある金髪がゆっくりと歩いているのに気が付き、一瞬心臓が跳ねた。芥川さんに良く似ている。よく似ている、のだけれどそれにしてもあのいつものテンションとは似ても似つかない、どちらかといえばのっそりおっとりとした雰囲気で、信号待ちで横に並んだ時に一層高まる心臓の音をぎゅっと抑え込みながらちらりと顔を見ると瞳も半開きだ。芥川さんじゃない、と思うと同時、あのときの天使のひとだ、ということがすぐにわかった。
なあんだ、あのひとか。と、思っても心臓の音はなかなか止まない。ドキドキと激しく脈打っているのがよくわかる。さっきまで冷え切っていた身体が内側から熱くなっていくのがわかった。
あれ。なんで。どうして。
天使は芥川さんではないはずなのに、私の心臓はまるで芥川さんの隣にでもいるかのようにざわざわとせわしなくポンプしている。最初芥川さんに似ているなと思ったせいで、勝手に反応してしまっているだけなんだろうか。まったく、恋をするのも楽じゃない。目に見えるすべてはやっぱり芥川さんであり、そしてこの病気を私はどこか楽しんでいるきらいがある。一気に落ちて、すっかりとはまってしまったこの恋の魔法は、いったいいつ解けるというのだろう。

信号の色が変わらないうちにもう一度、天使を盗み見する。同じタイミングで天使がふわあ、と大きな大きなあくびをした。綺麗な男の人だから、どきどきするんだろうか。芥川さんとよく似た金髪と背丈だから余計にそう感じてしまう。

気が付くと10秒くらい見つめてしまっていて、それに気づいたときにはもう遅かった。ふと天使と目が合ってしまい、しまった、と慌てて視線を外そうとしているのに、あの茶色い硝子玉みたいな瞳に吸い込まれてしまいそうになる。
タイミングよく変わった信号に従って歩きはじめると同時、手を引かれた。


「待って」


天使の声は、あのときよりもワントーン明るく、まるで芥川さんみたいだなと思った。

昨日おれの漫画を届けてくれたのってきみ?と、ゆったりしたスピードで天使が言う。天使は良く見ると氷帝学園の制服を身にまとっており、たぶんそうです、と返事をする私にぱあっと明るく笑う。あれ。もしかして、このひとは。
思って、いやそんなことあるはずがないと思い直す。だって、そんなことあるわけが。この天使が、まだ少し半開きの目をしている天使が、もしもあの芥川さんだったとしたら。
頭をよぎった恐ろしい限りの空想は、やはり恋をすると誰にでも起こり得ることなんだろうか。怖い。

「はい、これ」
「え」
「あげる」
「なんですか、これ」
「おれもよくわかんねーけど、あと・・・友達が、拾ってくれたやつにお礼しろって」
「え、あ、いえ。お礼なんて」
「いーからいーから」
「あ・・・ ありがとうございます」

ごそごそとリュックを漁って出てきた紙袋は端が少し破れていた。受け取った後中身をちらりとのぞいてみると、デパートの地下で見たことのある有名な洋菓子店の包み紙が鎮座していた。

「あ、あとこれも」

もう一度、ごそごそとリュックを漁る。この人は本当に天使なんだろうか。だんだん怪しくなってきた。天使というのは天からの使いであり、自分のリュックの中身の管理もできない人間を天使とは呼びません。うるさいな、観月さんは黙ってて。
ふるふると首をよこに振って、下を向く彼の金髪を眺める。ふわふわで、きらきらで、本当に、芥川さんみたい。
やっとのことで見つけたらしい、すでに封の開いたムースポッキーの箱を私の前に差し出すと同時、彼のリュックから小さな手帳が私の足元に落ちた。気づいているのかいないのか、彼はあまり気にしていないようで、表紙一枚めくれたそれに一瞬視線を落としてみると、顔写真と氏名の文字が飛び込んできたので、私の思考は一瞬にして停止した。

「あれ、落ちちゃった?」

恋に落ちる音と、恋する喜びを示す音はあまり似ていない。 合図をするのは簡単で、けれどそれに応えるのは困難だ。目の前の天使が一瞬にして芥川さんに変身したから、きっと天使とは魔法使いのことなのだと思う。だからもし彼の問いかけに答えてもいいのなら、私は間髪開けずこう答える。



ええ、それはもう。ずいぶんと前に。



(心臓が合図をくれる / 芥川慈郎)



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