芥川さんのテニスを初めて見たとき、何て楽しそうにテニスをするのだろうと思った。ボールを手にしたときの高揚した表情、高く高く上げ、それを打って、途端に跳ねる足。あっという間にネットの傍まで行くと、次の瞬間には彼のポイントが決まっている。テニス未経験の私にとって、それは瞬きを忘れた間の一瞬のことであるけれど、その中でも彼の楽しそうな顔ばかりがいくつも切り取られ、網膜の裏側へ保存されていったのだった。彼の弾む肩に合わせて、私の心臓も跳ねた。その日のメインイベントであったはずの跡部さんのショー(簡潔に言ってただの試合だが、私たちはそのように呼んでいる)の時間には、フェンス周りに近寄らず、ただただ日向ぼっこをして心臓を落ち着かせていた。

そんなことがあってから二年、私の心臓は未だ慌ただしく跳ね回ったままだ。



「今日は芥川さんの試合があるので、氷帝学園まで行ってきます」
「常々不思議に思うのですが君のその情報は一体どこからやってくるんですか」
「女子ならではのネットワークとツールですよ。観月さんも女の子になればいいのに」
「御免被りますよ。僕には僕の大事なネットワークとツールがあるので」
「存じておりますとも。それでは行ってきます」

聖ルドルフ学園テニス部の女子マネージャーなどあってないようなものだ。実のところやるべきことは雑用ばかりであるし、それならばその雑用の合間に相手校の情報収集につとめた方がよっぽど優秀なマネージャーと言える。部員それぞれにスポーツドリンクを渡し――そしてそれぞれに白い目を向けられながらも――私は颯爽と自校のテニス部を後にした。最後に観月さんと目が合うと、彼は長い長い溜息をついた後、「パスケースはきちんと持ちましたか」と言うので、私は誇らしげにコートのポケットからパスケースを出して見せ、それから駆けだした。



立海ほどではないといえ、氷帝学園のテニスコートの周りには、多くの他校生がいる。それらのほとんどは女子であり、純粋な偵察でやってくる生徒などほとんどいないのだけれど、彼女たちは跡部さんのショーが始まらない限りは、好き勝手に生活しているので、フェンスの周りは空いていた。さすがにフェンスの中に入ってコートをぐるっと囲むベンチまでお邪魔するわけにはいかない。これでも秘密偵察なのだ。


芥川さんの軽やかな金髪が視界に入ると、それだけで私の心臓は大きく跳ねた。芥川さんは楽しそうににこにこしており、樺地さんの周りをひょこひょこと飛び回っていた。芥川さんには擬音がよく似合う。くるくる、ぽんぽん、ぴょこぴょこ。

「久しぶりに樺ちゃんと試合だCー!まじまじすっげー楽しみ!!」

コート内で芥川さんが心底嬉しそうに叫んでいる。こちら側まで声が届いて、私の心臓はさらに大きく跳ねた。彼の声を聞いたのは数度目であるけれど、それのどれもが、こうしてフェンスの向こう側から、彼の嬉しそうな叫び声を耳に入れているだけのことである。ついでに言うなら彼の顔もきちんと見たことが無い。楽しそうな笑顔、それだけで、あとはくるくるとかわるコートチェンジのたびに視界に入る、軽やかな金髪だけだった。

それでも私は芥川さんが好きだ。楽しそうな芥川さんと、楽しそうな芥川さんのテニス。いつの間にかフェンスを強く握りしめており、手のひらに金網のあとが付いた。
私は芥川さんが大好きだ。





***






ところで、私は天使に出会ったことがある。先週の話だ。

氷帝学園での偵察帰り噂の跡部さんに捕まり校内のカフェで事情聴取を受けおいしい紅茶とおいしいシフォンケーキをご馳走になり観月によろしくなと言われ送り出された帰り、その電車の中だった。

ほんの一時間前までみていた芥川さんのテンションの高い試合が残っており高揚した体で、それでも集中のしすぎで疲れ切った頭は正直で。私は座席に着くなりゆるゆるとした睡魔に身を任せていた。目を閉じる直前、隣に誰かが座り、相手もすぐに寝入ったのか、かすかな寝息が聞こえたのを覚えている。お互い寝つきが良いのだな、と思ったのだ。

少し経って目を開けると、どのくらい進んだのかは分からなかったものの、私の肩には確かな重みがあった。それは確かに人の頭で、私の頬に当たっているやわかなものは確かに人の髪の毛だった。おそるおそる視線だけ動かせば、綺麗な金髪だった。まるで芥川さんの髪のようで、私の心臓は一気に忙しくなる。もう今日は休ませてあげたいのに。

私が勝手に芥川さんを思い出して見知らぬ男性にドキドキしていると、車内アナウンスが、次が私の乗り換え駅であることを知らせてくれた。私の肩をすっかり寝心地の良い枕にしている彼を起こさないようにそろそろ立ち上がろうとすると、上手に出来なかったのか、彼を起こしてしまった。芥川さんのような彼が「ん・・・」頭を起こし、こちらに目を向ける。綺麗な、透き通った薄い茶色の瞳が、硝子玉のようで綺麗だった。

きっと彼は天使なのだ。そう思えるくらい、綺麗な男の人だった。

どこか芥川さんに似ている気がしたけれど、私の中の芥川さんはフェンスの中の遠い存在で、きちんと顔も見たことがなくて、見た顔といえば楽しそうにテニスをしているときの顔で。間違っても、こんな半目で眠たそうな天使ではなかった。
思い違いだ。恋はなんて恐ろしいのだろう。目に見えるすべてが芥川さんに見えてしまう病気なのだ、これは。

私は彼に気付かれないよう静かに深呼吸をしたあと、

「起こしてしまってごめんなさい」

とつとめて礼儀正しく対応した。天使を起こしてしまったのだ。
彼は数度重たそうに瞬きをしたあと、ぐるりと車内をみまわして、「ここどこ?」と言った。瞼と同じくらい、眠そうな、もたついた声だった。その舌足らずな喋り方を聞いているとすぐにでも二度寝ができてしまいそうだ。

私は天使のような男の子の不思議な雰囲気に飲み込まれ、「どこに行きたいんですか」と尋ねていた。もともと私はそんなに親切な人間ではないのに、彼はどこか放っておけない雰囲気を持っていたのだ。彼が告げた駅は、ちょうど私が乗り換えのために降りる駅と同じだった。それなら次ですよと答えれば、彼は私の言葉を頭の中で噛み砕いているのか、それとも再び寝ようとしているのか、再びゆっくりと瞬きをしながらうつむき、少ししてから、顔をあげて、

「ありがとう」

先ほどよりは幾分かはっきりとした声で、綺麗に微笑まれながら、お礼を言われた。
ちょうど電車がとまり、天使のような男の子はさっさと席を立ち降りていく。扉がしまる直前に振り返り、眠そうな無表情でちょっと手を振ってくれた。遠くで見ると思っていたよりも男の子らしい。やっぱり芥川さんに似ている気もしたけれど、似ているのは軽やかな金髪だけな気もした。

先ほどまで天使が座っていた場所に目を落とせば、いかつい絵柄の少年漫画が落ちている。彼の忘れものだろうか。けれど、天使がこんなにいかついものを読むのだろうか。読書をしたとして、せいぜい聖書か煌びやかな絵本だろう。彼もうちの生徒になってしまえばいいのに。

そういえば制服を着ていたけれど、どこの学校だったっけ。

彼のことを思い出そうとしても、何せ私自身も寝起きだったため、うまく思い出せない。とりあえず少年漫画を放っておくわけにはいかないので、駅員さんに届けることにした。天使の落し物ですと言って大丈夫だろうか。怪訝な顔をされるかもしれない。常日頃から怪訝な顔と白い目には慣れているけれど、学校の品位を下げてしまうかもしれないので、余分なことは言わない方がいいのかも。

「あれ?」

そこでようやく気が付く。

「降り損ねた・・・」





***




そのあとは散々だった。帰りが遅くなり観月さんにこっぴどく叱られ、なぜだか反省文まで書かされた。私はもう変な妄想をしません、私はもう変な人と喋りません、私はもう電車の中で寝たりしません。観月さんの心配のベクトルはいつだっておかしいのだ。

それを思い出しぶうたれていると、審判役の子が試合開始を告げると同時、誰かに肩をたたかれた。やけに周りが騒がしい。不純な偵察の女の子たちは、まだ活躍の時間ではないはずなのに。
怪訝に思い振り返ると、跡部さんがいた。なるほど女の子たちが騒ぐはずだった。

跡部さんは口の端を持ち上げ、「今日も偵察か?」と言った。頷くと、彼は一層笑みを濃くして、

「話があるんだが」

という。私はそれどころではなかったので、

「申し訳ないんですけど、この試合が終わってからで良いですか」
と正直に述べると、彼は怪訝そうな顔も白い目も向けず、ただただ楽しそうに笑った。彼は良い人だ。



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