「さん、ダンスの経験はありますか?」 来た。そう思った。彼の質問に三拍子ほど遅れて「あんまり」返事をすると、そんな答は聞いていないとでも言うように観月くんは「まあ、これは王子役の櫛田くんと実際に行った方が良いでしょうね」あっさりわたしの期待を打ち消した。 一瞬の間逸らされていた物語は、観月くんの涼やかな声で再び色を取り戻す。舞踏会、シンデレラが憧れていた場所。煌びやかなシャンデリアと、華やかなオーケストラ。色とりどりのドレスを着た貴婦人たち。その中にはシンデレラを置いてきた彼女たちも居り、綺麗に整った男性とくるくる慣れた様子で踊っている。大広間の一番奥、階段の一番上。品定めでもするかのような場所に、けれど威厳と品位を携えて、彼が立っている。王子様だ。 シンデレラが思わず彼に見惚れていると、王子様は彼女の視線に気づき、そうして目が合う。一秒、二秒、三秒。 ナレーションのあと、観月くんが顔を上げる。釣られて私も上げ、彼の瞳を見つめた。まるで本当におとぎ話の中に入ってしまったかのような、本当に王子様のような、本当に素敵な観月くんの瞳を、三秒経っても逸らせずに、ただただ見つめていた。シンデレラは王子様に見惚れたまま、動けなくなってしまう。 「――というような内容ではなかったはずですが。貴女のセリフですよ」 「あ、す、すみません・・・」 慌てて台本に目を通す。もう既によれた紙を、さらに強く握る。何度も読んで頭に叩き込んだはずの内容が、自分の思っていたものとまったく違って、少なからず動揺していた。わたしの中と彼の中では、作られている世界の広さが違うのだ。 「お、王子様、何て素敵なのでしょう」 「こんばんは、貴女のお名前は?」 また、思考が停止する。 似合うだろうと思っていた観月くんの王子様は、本当にはまり役だったのだ。制服を着たまま、椅子に座ったままの状態でこんなに素敵なのだから、実際に衣装を着てライトを浴びたら、それはとても素敵なことだと思うのだ。 クラスのみんながそう思っていた。たとえば相沢さんが『当たった』ときみたいに、観月くんにも『当たれば』いいのにと。けれど実際は櫛田くんが王子様になって、それはそれで悪くはなかったし、何より櫛田くんと相沢さんの仲は以前より噂されていたので、教室内からははやす声があがった。だから余計に、わたしが代打ではいけなかったのに。 そんな王子様ではない観月くんは、王子様どころか何の役も勤めていなかった。どんな役も綺麗にこなすのだろうに、脚本と演出に回ってしまったのだ。 役までやってしまえば、脚本に私情が入る、演出が疎かになる。そう言って、観月くんはクラスメイトたちの様子を見て周り、演技指導をしてくれた。やっぱり意外だった。まさに『悲劇のヒロイン』になってしまったわたしへ特に気を回してくれることは、不幸中の幸い、幸いすぎて不幸がやってきたのか、もう何なのかわからなくなっていた。 観月くんと台本をいったりきたりしながら、それでもなお食らいつくわたしの意識が他へ飛んだことに気が付いたのだろうか。観月くんはナレーションの声を止め、台本を静かに膝の上へ置いた。それすらも決められた物語のような、洗礼された所作だった。思わず感心していると、「さん」呼ばれる。 「はい」 「シンデレラと王子様がお互いに一目惚れをすることは、おとぎ話の中だからだと思いますか?」 「・・・え?」 「現実にも充分に起こり得ることです。馴染み深い言葉で言うなら、運命」 わたしにはまったくなじみ深くない言葉をあっさりと恥ずかしげもなく言いきった観月くんは、薄らと優しくほほ笑んで、小指を立てた。きれいに整えられた爪の先はまっすぐ天井を指している。 *** おとぎ話は好きだった。自分で空想することも、人に読み聞かせてもらうことも好きだった。そこにはわたしの知らない世界がたくさんあり、そうして知っているはずの世界もまた、ページを捲るたびに新しい世界へ変わっていく。 けれどわたしは観月くんに出会って、観月くんと話をするようになって、観月くんの世界を知って。彼のあまりにも綺麗で広い世界に触れたわたしは、すっかり自分の世界では物足りなくなっていた。一時的とはいえ、まるで自分で思い描いていた物語のヒロインになれたかのようだったのだ。 気になる男の子と二人きりで演劇の練習だなんて、信じられないくらい素敵なストーリーだったから。 ちくちくと肌を刺すドレスの感触には未だ慣れない。緊張とライトの暑さで汗だくだ。やっぱりわたしがシンデレラになるべきではなかった。もっともっと、このドレスを綺麗に着こなして、会場で劇を見つめているそう多くはない観客の心をつかむことが出来たのに。 舞台袖からそっと会場を見下ろす。演劇は好きだったので、文化祭のたび、わたしは演劇クラスを覗きに行った。そのたび人の少なさに慄いて、後ろの方で少しみたあとは、さっさと逃げるように退散してしまっていた。会場にいたわたし以外の人も、大体が『そう』だった。 けれど、この場所から覗く限り、会場の人たちはほとんどが、夢中になってステージに注目している。クラスメイトの他クラスの友達などは、彼らの見せ場があるたびに小さく盛り上がっていた。つまり、シンデレラから見なくても、誰から観てもおもしろいようにできていたのだ。 観月くんはすごい。 途端に、心臓が跳ねる。落ち着かせるようにぎゅっとドレスを掴む。 初めてドレスを着て彼の前に姿を現したとき、彼はいつものように微笑んで、「馬子にも衣装ですね」と、はじめてわたしに対して慣れたような言い方をしてくれた。わたしはそれがとても嬉しくて、心臓ばかり跳ねさせる。 「さん、次ダンスだよ、がんばってね」 ここ数日のわたしの頑張りを近くで見ていた櫛田くんは、そう言ってわたしの肩を優しく叩いてくれた。それから申し訳なさそうに微笑む。「ごめんね」そう添えて。 わたしは首を振ってから、「練習、つきあってくれてありがとう」とこたえた。観月くんとのマンツーレッスンの合間に、王子役である櫛田くんとダンスの練習をしていた。お互い経験不足で、観月くんに頭を抱えさせるほどだった。けれどシンデレラという物語の、一番の見せ場だから。 ガラスの靴が脱げてしまわないよう気を付けながら、ステージへ飛び出す。 ライトの熱さも人の視線も慣れないけれど。やっぱりわたしにシンデレラなんて似合わないけれど。 「王子様」 口が勝手に開く。足が勝手に前へ進む。彼は、観月くんはいつものように微笑んで、ライトの下で待ってくれている。 櫛田くんが、「やっぱり僕に王子様は出来ない」と言い出したのが、先週のことだった。 責任感のある櫛田くんらしからに発言で、わたしと観月くんは顔を見合わせ大層おどろいた。観月くんの驚いた顔を見たのは初めてだった。 聞けば、彼女である相沢さんが怪我で苦しんでいるのに、自分一人が王子役をやっていることに耐えられない、だそうだった。あまり時間と動きを使わない小道具Aになった相沢さんのサポートをするべく、小道具Dを申し出た。ちなみに小道具要員はCまでしかなく、つまりまったく新しいキャラクターを今から作ってくれ、ということらしかった。「BかCの人と交換じゃダメなの?」何もわかっていないわたしは気軽にそう尋ね、二人から否定されることになってしまった。一週間で準主役である王子様役のセリフと動きを覚えられる人間が、そうそういるわけではない、らしい。 観月くんは、いろんな人のところで、いろんな指導をしてくれていた。 特にわたしに目をかけてくれ、シンデレラの相手役をすることが多かった。 あんなにも脚本と演技指導に力を入れていた観月くんが、なぜ引き受けようと思ったかはわからないけれど。 BGMが変わり、舞踏会のシーンに入る。 ライトが熱く、人の視線を感じるのに、わたしはもう何度も続いた練習のお陰で、この場所を夕日の差し込む教室だと錯覚する。 ――ほら、赤い糸。君にも見えるでしょう? もっとよく見えるように、シンデレラは王子様に手を伸ばす。 「シンデレラ、僕と踊っていただけませんか」 「ええ、よろこんで」 |