すぐそこに見えたはずの場所は、案外遠回りをしなければたどり着けないらしい。
急がば回れというものの、回り道をしていたらあっという間に日は落ちる。









「まーくん、体育の授業さぼってたでしょ」

5時間目が始まる直前に、また鼻の頭や頬を赤くしたが教科書を片手にそんなことを言ってきた。4時間目のことを言っているらしい。秋を感じる間もなく訪れた冬に、寒がりで堪え性のない仁王家の一員である仁王雅治がジャージ一枚で冷たい風の吹きすさぶグラウンドでサッカーなどやっていられるはずもなく、それならば暖かい場所で、制服の上からジャージにくるまれていた方がよほど身体が温まる。
昔からこの時期になると俺は柄にもなく猫になりたいと思うことがよくあるのだ。猫になって、可愛がってくれるやつの足元にすり寄って、寒くなったらこたつの中で丸くなる。こんなに幸せなことはない。

「ん、どーいたしまして」

礼を言われる前にそう返せば「あ、ありがとう」と慌てて返すところがらしいなと思った。教科書を受け取ろうと右手を差し出すと、無機質な本の代わりにひどく冷たい小さな手が重なった。

「・・・なん」
「冷たい」
「中庭つっ切って来たせいじゃろ」
「ううん、まーくんの手」
「どっこいどっこいぜよ」

えー、と文句を垂れるの小さな手を軽く握ってやると、「あったかい」なんて零して得意げに笑う。嫌がらせでもしてやろうかと思っていたのに、面白くない。こんなの、かわいいだけだ。

ふざけるな。

自分が今、いったいなにを思ったか。ふと我に返った瞬間躊躇いと罪悪感から咄嗟にの手を解放した。

「えへへ、ありがとう」

にへら、と、馬鹿っぽい笑い方は幼いころから変わらない。そのくせ、昔は全くわかなかった感情を今現在の俺はしっかりと否定できないくらい認識してしまっている。いったいどうしてこんなことになったのか。
経験がないわけじゃない。そうでないとしても、どう見積もったってよりはよほどいろんなことを経験しているはずだった。はす向かいの住人なのだ、ただのクラスメイトにはわかりようのないことだってわかってしまう。
だから俺はよく知っている。というよりも、大体わかる。がこれまでどんなやつを好きになったかも、はす向かいに住む同級生のことを俺はそんな風に意識したことは一度たりともないということも。

こんな冷たい手でも少しは役に立ったのか、両手を擦り合わせた後で「じゃあね、まーくん」ひらひらと手を振るになおざりな返事をすると特に気にする風もなく、背を向けてぱたぱたと去っていった。だんだんと小さくなる背中を視界の端に映しながら俺は小さくため息を吐く。息が白かった。









始まりなどあってないようなものだ。最初から決まってるものでもない。所詮線引きをするのは自分自身であって、他の誰でもないのだ。

面倒なことになったな、と思う。こんなことになるなんて、数日前の俺はたぶん毛の先ほども思っちゃいないだろう。いったい何がいけなかったのか。季節的なものなのか、番組改変のせいか、ホラー番組のせいか、それともCMがつまらなかったせいか、それとも話題についていけないというくだらない恐怖におびえるはす向かいの住人が風呂上がりのパジャマ姿でベッドの上に座っていたせいか。
わかりきっている。僅かに触れていた丸い肩が、妙に熱を帯びていたせいだ。選択肢は初めからひとつしかなかった。

「ほーんと、仁王先輩ってドーブツに懐かれますよね。猫とか犬とかうさぎとか」

ここのところずっと機嫌のいい丸井からせしめたドーナツを口いっぱいに頬張りながら赤也が言った。どうやらこいつも上機嫌のようで、口もとについた砂糖を親指で拭いながら続ける。「あ、つかあれ、誰でしたっけあの仁王先輩のことガキみてーな名前で呼んでる先輩。アノヒトもなーんか小動物っぽいすもんね」あっというまにドーナツは消えた。

「こないだ裏道んとこで猫可愛がってたでしょ」
「よう知っとるの」
「へへ、でしょ」

小動物、と言われてみると確かにそうかもしれなかった。
後輩との雑談の中に、不意に登場したが一瞬自分の知らない彼女のように思えて、けれどそれは当然のことだとすぐに気が付いた。俺の知らないなどいくらでもいる。幼馴染というほど古い間柄でない彼女が幼少期の頃ひどく可愛がっていたというハムスターの存在なとを知ったのはつい1か月前のことだし、右の胸の内側に小さなほくろが二つ並んであるということを知ったのはつい昨日のことだった。どちらも本人がぽろっと落としただけだったが。

後輩の、赤也の目に映る俺とは、いったいどのように見えていいるのだろう。ふとそんな考えに至った。幼馴染?ご近所さん?クラスメイト?チームメイト?浮かんでくるのはどれも俺との関係を示すものではなかった。昔―――いや、昨日まではそれでよかったはずなのに。









今更どうこうできるわけでもなく、かといってそう簡単に認められるものでもなく。
丸井からは「趣味が悪い」と笑われ、真田には「たるんどる」といつもの大声を浴びせられ、赤也には呆れられた上に昨日から気になり始めた女を犬猫と同列に扱われ。それはつまりもしかしたら俺との関係を表しているかもしれなかったが、飼い主とペットだというのであればどちらかと言えば飼い主はの方だろう。

そう。
いいように飼われているのだ、たぶん。
はす向かいで生活している同じ学校に通ういたいけで健全な男子を、たとえば一人では見られないホラー番組に付き合わせたり、たとえば忘れた教科書を借りに来たり、頼みもしないのに俺の髪を結い直したり、自分のマフラーを貸したり。
ああ、そういえばこんなこともあったな、と今になって思い返してみると、今までどうして彼女を意識せずにやってこれたのか疑問で仕方がない。
思えば赤也に「ガキみてー」と言われたあの呼び方をするのはだけだ。他の誰もそんな風には呼ばないし、呼ばれたところで違和感しか感じないはずだ。逆に、が俺を別の呼び方で呼んだとしたら違和感とは別の何かを感じるはずだ。胸を締め付けられるよう、な。


心からみっとも無い始まり方だ。
彼女を意識し、昨日おとといその前とだんだんと彼女との記憶を遡っていけばいくほど罪悪感に似たものがふつふつと湧き上がってきてしまい、出会った当時のまでたどり着くことができない。
あれくらいのことで。

転がり始めると簡単に落ちてしまうのだ、ということをわかっていたが、実際に自分がそうなるはずはないと思っていた。詐欺師は騙されるのではなく騙すのが仕事であり、そしてそれをする相手に不服など微塵もない。いつのまにか形勢逆転していたことにすら気が付かないなんて、本当に俺は馬鹿だ。



薄手の布一枚に隠れた腕も腰も、冷たく濡れる髪もうなじも、ひどく冷たい指先も。シャンプーとの香りが染みついたベッドに上に転がっていては、まともな思考などできるわけがなかった。
気づかなければよかったと、心から思う。今さらどうやって彼女を説き伏せられようか。窮地に立って初めて自分の弱さに気づく。ああ、これも気が付かなければよかったことだ。

じわじわと身体を侵食していく熱を感じながら、まだの香りが残る自分の部屋で俺はただただ飢えを感じていた。
あいつとの関係を簡単に表すことが出来る言葉を、ぐるぐると頭に浮かべながら。


さて、どうしたものか。



(欲情からはじまりますか / 仁王雅治)



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