幼馴染みというにはそこまで古い馴染みではなく、けれどしかしご近所さんというには些か距離が近すぎる。 神奈川に越したとき初めて会話をした現地民がだった。彼女は俺の訛りを不思議がり、数日真似をして遊んだあと、もしかして失礼だったのならごめんと唐突に深々謝ってきたことが印象的だった。 神奈川に知り合いがいない俺たち三人兄弟は、揃っての遊び相手になった。生意気な弟は彼女の前では猫を被るようになり、姉は暇さえあれば彼女と一緒に買い物へ出掛けた。自分のお古を渡すことも多かったが、正直には似合っていなかった。 思い出すのはまだ真新しい制服を着たの姿であり、決してお風呂上がりの彼女ではない。しかし目の前にいるのは確かに薄手のパジャマに身を包んで寒そうに膝を抱えているだった。 「馬鹿は風邪ひかないんかの」 「まーくんの部屋寒い」 「エアコンの設定見たんか」 「ううん」 一年中ほぼ同じ室温であるこの空間は俺のお気に入りであったし、柳生には電気代が勿体ないですよとよく言われるが、堪え性がないのは仁王家に色濃く受け継がれる仕様もないDNAだ。 器用に足を折り畳んでベッドの上で縮こまっているそのすぐとなりで毛布をかぶりながら寛ぐ俺を、彼女はじっとりと見つめる。ここは俺の部屋なのだから、俺が寛ぐことは正しい。こんな季節にそんな薄着でいるほうが悪いのだ。去年の彼女の誕生日プレゼントに、弟が渡したものだった。阿呆らしい。 「チャンネル変えていい?」 「CM入ったらな」 「もうCMじゃないのこれ」 「随分と購買意欲のなくなるCMじゃのう」 「もしこれがCMで毎日毎日団欒の場に流れるのだとしたら、わたしはテレビ局に抗議の電話をかける」 すぐに言うことが変わるのは彼女の癖だ。話しているうちに自分のなかで意見が変わるらしい。まわりにしてみればこんなに迷惑なこともないのだが、慣れてしまえばむしろ微笑ましい癖だった。 クラスの話題についていけなくなるのが嫌だ、と言って、ホラー特番をみたいと言い出したのは彼女の方だ。クラスの話題についていけなくなることも番組改編の時期に毎度行われるこの特番も別段怖いと思ったことはなく、むしろ陳腐で馬鹿馬鹿しいと思っていたものだが、どうやらは違うらしい。ホラーが何よりも怖く、けれどしかしその何よりも怖いもの、よりも更に怖いものが、クラスの話題についていけなくなることらしい。 あまり部屋に留まらない俺にしっかり事前予約のメールを入れ、ちゃっかりパジャマと制服を鞄に詰め込んでやってきた彼女は、既に後悔を始めているらしい。なら見なければいいのに。 番組開始と同時に手つかずになった髪の毛は未だしっとりと濡れてたままだ。おそらく当の本人は、それが寒気の要因であることに気がついてはいない。既に肩からも落ちベッドからも落ちていた可哀想なタオルを拾い上げ彼女の頭に被せてやると、タイミングが悪かったのか、はあからさまに肩を跳ね上げ、もともと丸い目をさらに丸くしてこちらに向けた。にここまで怯えきった顔を向けられたのは初めてだった。 途端。 ――途端、胸の奥がふつりと熱くなった。恐らくこれは、丸井に散々言われてきた、「趣味が悪い」ということなのだろう。の肩の丸さに、出会ってから初めて気が付いた。 * 恐らく、本当に、俺は趣味が悪いのだ。 * シャワーを浴びると席を立ちかけた俺に縋りつくようにして引き留めたは俺の気持ちなど知る由もないのであろうし、その後テレビの中でくだらない連中が大音量で飛び出してくるたびに過剰な反応を見せるにやはり俺も過剰な反応を見せたし、ついでに言えばその日は一睡も出来なかった。翌朝の練習は身が入らず、真田に散々しごかれた。 全く散々だ。いつもなら、適当にあしらえる程度のものだったのに。何もかもだ。 例えば、赤也のくだらない質問も、いつもの俺ならばあしらえるはずだった。 「つーか、仁王先輩ってそーいうビデオ観るんすか?」 「・・・・・・ホラーなら昨日観たぜよ」 「はあ?つまんねー返ししねーでくださいよ」 やっていられない、という風に手をひらひら振ると、赤也はあっという間に前の方へ走って行ってしまった。外周の途中でそんな話題を吹っかけるあいつがおかしいんじゃないのか。まともに返してやらなかった俺がおかしいのか。唐突に幻滅されふつふつと苛立っていると、少し後ろを走っていた丸井の押さえた笑い声が聞こえ、余計に腹が立った。 「プリ」 * 幼馴染みというにはそこまで古い馴染みではなく、けれどしかしご近所さんというには些か距離が近すぎる。 中途半端な位置なのだ。間違いなく俺の人生の中で一番付き合いの長い他人ではあるけれど、彼女にとってその相手は、きっと俺ではない。生まれた場所がまず違い、人生のほとんどを過ごしてきた場所も違う。喋り方も違えば、交友関係だって違うのだ。 はす向かいに住む彼女は、気が付けばいつも俺の視界の中にいた。けれどしかし、こうして気が付いてみると、『そう』思っていただけで、実際には俺の視界には、などほとんどいなかった。 クラスが違う。委員会が違う。部活が違う。はす向かいで生活している同じ学校に通う女の子。ただただ、俺の目が彼女を追っていただけだ。 今だってそうだ。 理科準備室でぼんやりしていると、中庭からの声が聞こえたような気がした。カーテンを少し開け日差しに目を細めれば、やはりすぐ傍に彼女がいる。中庭のベンチで、友達と楽しそうに話していた。寒がりの癖に、本当に馬鹿だ。彼女と同じように寒がりで、なおかつ堪え性のない仁王家の一員である仁王雅治は、こうしてストーブをたいた理科準備室に籠っているというのに。 こっちに来てしまえばいい。 そう思うのに、なかなか行動にうつせない。ただただ胸の奥のじりじりした熱さに動揺して、こそこそとしているだけだ。中学生かよ、と思う。彼女だっていなかったわけではないのに。と鉢合わせたことだってあるし、その時のは普通の態度だった。俺も普通だった。なぜなら、俺たちはただのはす向かいの住人だったからだ。 幼馴染みというにはそこまで古い馴染みではなく、けれどしかしご近所さんというには些か距離が近すぎる。俺たちの関係を一言で表すことが出来る言葉など、今のところ無かった。 * 「まーくん、教科書忘れちゃった。貸して」 中庭から直接やってきたのだろうか、まだ鼻の頭や頬を赤くしたままの彼女が、一足先に教室に戻っていた俺のところを訪ねてきた。 昨日からどうにもおかしい俺は、の柔らかそうな髪だとか、昨晩と変わらず丸い肩だとか、短いスカートだとかを見下ろすことに集中してしまい、結果無視をしているような形になってしまった。ただ黙って自分を見下ろしている俺に腹をたてたのか、眉を寄せて「ねえ、まーくん」はちょっと棘のある声で俺を呼ぶ。 「・・・なん?」 「なん?じゃなくて、教科書貸してほしいなって。数学」 「ん、待っとれ」 「うん」 腹を立てても、俺がきちんと答えてやればあっという間にいつもの表情に戻って子どもみたいに頷く。その従順さにまた胸の奥がチリチリとして、今すぐその細そうな腕をつかみたい衝動を抑えた。心を無にしながら数学の教科書を持って来れば、「ありがとう」と笑ったが思っていた以上に何というか、かわいくて、俺はいったいこの小さな女の子と今までどうやって付き合って来たのか、本当に分からなくなった。 数日前の俺に聞きたい。 何でこれといて毎日平気で暮らしていけたんかの。 全く、散々だ、やっていられない。こんな見っとも無い始まり方なんて。 詐欺師の名が廃る。 |