餌を与えたところで、愛情がなければ猫は人間に懐かないそうだ。ただ、気まぐれに甘えるだけ。
腹を空かせた猫で試してみればいい。餌を目の前にちらつかせれば足元にすり寄ってきてちょうだいとせがむ。みゃあ、みゃあと、まさしく猫なで声で鳴く小猫に弁当の唐揚げを与えてやると勢いよくかぶりついておいしそうに食べる。食べ終えて、まだ腹が減っていれば、もっとちょうだい、と可愛い声を聞かせてくれるが、腹が膨れればもう用済みだとでも言わんばかりに尻尾を向けて去っていく。いわゆる『都合の良い女』と呼ばれる女の気持ちが今ならわかるような気がした。












ひとめぼれ、というわけではないけれど。
なんとなく気になっていただけ。そのつもりがなくたって、まわりの人よりも頭ひとつふたつ飛び出ているのだから、目について無意識のうちに視線で追いかけてしまうのは仕方がないことだ。
ただ、そういうことが何回かあって、何回も続いて、だんだんそれが無意識ではなく意識的にやっているのだと気が付いた。恋という自覚はない。好意があるにしてもそれがイコール恋愛対象としてなのかと訊かれればたぶん、そうではないと答えると思う。即答はできないけれど。簡単には答えられない。難しいことはわからない。そもそも私はこれまでまともに恋愛をしたことがないので、恋をするということがどういうことなのか未だによくわからなかった。だけどこんなことを周りの女友達に言えば笑われるだけなので、例えば恋バナをしているときに、気になるひとはいないのかと訊かれるといつもこう答えるようにしていた。

『よくうちのお店に来てくれる、かっこいいお兄さん』






「くらいに言われへんのかお前は」

日曜のお昼過ぎ、買い物を頼まれてスーパーへ行った帰りにオサムちゃんとばったり会った。どうやら競馬帰りだったらしい。小脇に抱えたカラフルな新聞紙と、いわゆる"シケた面"をしていたのですぐにわかった。こんな人が担任だとは思いたくない。気づかないふりをしてすれ違おうとしたけれど、やっぱり腐っても担任というわけで、自分のクラスの生徒の顔くらいは業務外でも認識してくれるらしい。「おう、やないか。おつかいか?」いつもの調子で片手をひらひらと振る。おつかいって。子供じゃないんだから。私をいくつだと思ってるの。こっそりと唇を尖らせた後立ち止まって、一言二言会話をして家に帰ろうとしたところでまたまたばったり知った顔と出くわした。久しぶりに会った小学校時代の同級生は嬉々として私に話しかけたが、ほどなくしてその傍らで競馬新聞片手にくわえ煙草で佇むチューリップハットの男をチラと一瞥すると苦笑いだけを私にくれたので、慌ててこう言ったのだった。「私の家、定食屋やってるでしょ?あのね、この人はよくうちのお店に来てくれる近所のオジサンなの」。

小学校時代の同級生を笑顔で見送ると、その背中が見えなくなったところで「おい」胡散臭いうすら笑顔を浮かべたままのオサムちゃんが少し低い声を出す。
声の大きい常連客兼口うるさい担任の渡邊オサム先生は、私の口から咄嗟に出てきた『オジサン』という的確な単語にどうやら不満を覚えたらしい。爽やかさのかけらもない笑顔を浮かべながら、眉間に皺を寄せてそう吐き捨てると私の頭に手を乗せて髪をぐしゃぐしゃにしてみせた。

「ちょっと、やめてよ」
「やめん」
「やだ、やだってば!」
「20代のイケメン捕まえて何がオジサンや!この!小娘が!」

買い物帰りで両手がふさがっているのをいいことに、好き放題に撫でまわされて頭がぐるぐるする。
昔からこうだ。漢字の書き取りテストで100点満点を取ったとき。父親に叱られて泣きべそをかいているとき。割ってしまったコップを隠そうとしていたところを見つけたとき。褒めるのも、慰めるのも、怒るのも、ぜんぶこれで済ませてしまう。いい加減なところは何年たっても変わらないんだから。
前に流れてきた後ろ髪の隙間からオサムちゃんの表情を盗み見てみるとどこか楽しそうだったので、怒っているわけではないのだなと思った。もちろん、私は間違ったことなんて何も言ってないのだけれど。

黙ってそんなことを考えていると「コラはよごめんなさい言えや!」なんて声が降ってくる。

「ごめんなさあい」
「・・・さぁん?」
「・・・はい」
「『ごめんなさあぁぁい』ちゃうやろ、『ごめんなさい!!』やろ!おっ?」

私のごめんなさいを馬鹿みたいに真似てみせたオサムちゃんが小憎らしくて、「ごめんなさいー!」せいいっぱい歯を食いしばって『い』の音を吐き出すと「ほんっまかわいないなっちゃなお前は」そんな軽口を叩くくせにやっぱりどこか楽しそうに見えてしまう。少なくとも私にとって、オサムちゃんとのこんな何気ないやり取りをしている時間は、来るか来ないかわからないあの人のことを店で待つ時間よりもずっと心臓がざわつくのだ。






好きか嫌いかで言ったら、どっちだろう。
二択じゃ足りない。わからない。判断できない。だって、「好き」と「嫌い」を理解するよりも前に、この感情は生まれてしまったんだから。名前なんて、後からじゃつけられない。

「しょーがないからオサム先生が店まで送ってったろか」なんて偉そうなことを言いながら私の右手のビニール袋をひょいと取り上げると、くるりと踝を返してすたすたと来た道を戻ろうとする。「ありがとう」の代わりに「オサム先生、もう一つの袋は持ってくれないんですか?」かわいこぶって、上目遣いで小首を傾げてみると「おお、せやった、は箸より重いもん持ったことない箱入り娘やもんなぁ、しゃーないなあ、そっちも持ったろか」目を細めてポケットの中に突っ込んでいた方の手を私の方に差し出したところで間髪入れずに「ってアホか!」ばかでかい声が耳を抜けた。ちょっと、つば飛ばさないでよ。汚いなあ、もう。

「生意気言うようになったなあホンマ」
「可愛い冗談じゃないですか」
「誰が可愛いて?生憎俺の横には生意気なくそガキしかいてへんわ」

げらげらと下品な声で笑うオサムちゃんに「ガキじゃない!」たぶん受け入れてはもらえないだろう抗議を申し立ててみると、今まで見たことのないような真剣な表情に一瞬だけ変わって、けれどそれはすぐにまたオサムちゃんの大きな笑い声と、バシバシと私の肩口を叩く音にかき消されてしまった。

何かを言おうとしていたんだろうか。そう訊ねてみるタイミングはとっくに過ぎてしまって、結局聞けずじまいだ。お店に着くなりオサムちゃんがいつもの席に腰かけて「礼はいつものでええわ」にやりといやらしく口角を上げる。

「もう。結局そういうこと?『オサム先生』が聞いて呆れる」
「おっ?おつかい手伝ったった礼もでけへん子に育てた覚えないで?オサムちゃんは」
「オサムちゃんの子供になった覚えはありません!」
「おーおー、反抗期かあ?」

オサムちゃんがお父さんなんて嫌だ。オサムちゃんが同級生なのも嫌だ。オサムちゃんが先生なのも嫌だ。
だって、オサムちゃんはオサムちゃんなのだ。昔からずっとずっと、私の傍にいてくれるひと。今までずっとそうだったし、これからもずっとそうだったら、・・・そうだったら、いいのに。

これが恋だというのなら、とっくの昔に、きっと私は落ちていたのだ。












「食べたらさっさと部活行きなさいよね」

エプロンもしないうちにため息交じりにそんなことを言う。今日の味付けも濃くなるんだろうか。しかし彼女の表情をよく見てみると不思議と不機嫌のようには思えず、むしろ上機嫌のようにすら見える。ここ最近の彼女と比較をして、だったが。
女というのは、よくわからない生き物だ。これまで女に困ったことはないなどと言うつもりはないが、これでも何人かと付き合ったことはある。に言えば「うそだ」と指差し笑われるかもしれないが。その何人かと付き合って思うことは、女というやつは総じてわがままであり、嫉妬深く、行き先を告げないことを良しとしない。ただ、わがままの一つも言わない女というのも可愛げがなく、嫉妬心のかけらもない女というのもどこか物足りない。行き先を告げないのは後ろめたいからではなく、ここに帰って来るという証のようなもの、と言っておけば恰好はつくだろうか。

猫はきまぐれな生き物だとひとは言う。そんなきまぐれな猫に、どうやら俺は似ているらしい。そんなニュアンスのことを、昔の彼女に言われたことがあった。
しかし、果たしてそうだろうか。当時の俺はたぶん猫に似ていると言われ、ああそうかもしれないなと思っていた、ような気もする。正直昔のことは覚えていないし、あまり思い出したくないことの方が多い。たかが27、されど27。こう考えてみるとやはり俺は案外オジサンなのかもしれないな。重いフライパンを片手に天津飯を作るの後ろ姿を眺めているととたんに虚しくなる。

「部活に行くところだったんでしょ?」
「・・・ん、ああ、せやな」
「なあに、オサムちゃん。元気ないね。そんなに大負けしたの?」

一瞬何の話だと思ったが、どうやら競馬のことを言っているらしい。ちらりとこちらを振り返ったの目は明らかに人の不幸を笑っていた。勝ったら勝ったですぐ「何かおごって」とせがむくせに、まったく勝手なやつだ。 大負けしたことは認める。元気がないつもりはなかったが、がそう言うのならそうなんだろう。だがその原因は給料日前の財布がカラになったことでもの同級生に不審な目で見られたからでもない。


さして変わり映えのしない自分のなりに比べはこんなにもでかくなったのに、昔も今も彼女との年の差は、折った指を開かなければ片手で数えられない。
参った、もう恋ができるような年齢ではないはずなのになあ。





たぶん、猫にはなれない。 気まぐれじゃない。移り気などない。浮気もしない。
腹が減ったからじゃない。誰でもいいわけじゃない。何でもいいわけじゃない。
何も腹を膨らすためにここにきているわけではない。むしろ言ってしまえば餌を与えてくれる人間などそれこそ誰だって構わない。
ラーメンでもいい。チャーハンでもいい。焼肉定食でも構わないが、数年前から肉より魚を好むようになってきた。年をとったなと思う。昔は肉などいくらでも食べられたものなのに。ついでに言えばさして天津飯が好物というわけでもない。

それなのに今日も俺は、腹を空かせてここにやってきた。

「はい、お待たせしました」

ため息混じりにがそうつぶやくと、湯気の立つ皿をカウンターの上にコトンと置いた。
いつものそれよりも一回りでかく見えて試しに両目をこすってみたがどうやら老眼が始まったわけではないらしい。当たり前だ、古文の早川先生じゃあるまいし。

「食べないの?」

照れ隠しのつもりなのか、口笛でも吹きだすんじゃないかというくらい涼しい顔をしたが横目でこちらを見ている。思い切り茶化してやろうかとも思ったが、見えないふり、気づかないふりを決め込んであつあつの天津飯をかっ込むとの口角が嬉しそうに上がる。ひどく久しぶりのように感じる、のその笑顔が俺だけに向けられるのは。

「オサムちゃんってさ」
「おお?」
「犬みたい」

・・・ああ、明日こそ猫になる。



(明日こそ猫になる / 渡邊オサム)



inserted by FC2 system