おとといの返事をすることもなく、返事を急かされることもなく、昨日は終わった。

拍子抜けした気分になるのはなんとなくおかしな気もするが、実際に拍子抜けしてしまったのだから仕方がない。信じていないのかとは言われたけれど、そういえば返事については何も言われなかった。明日とも、来週とも、そもそも返事が欲しいのかどうかすら怪しかった。だからこそ余計に信じられなかったのだ。手の込んだドッキリでも仕掛けられているんじゃないかと、ときどき周りを見渡してみても『ドッキリ大成功!』のド派手な看板の影すら見つからなかった。
もっとも、あの白石くんがそういった、ひとの心をもてあそぶようなことを良しとする性格ではないだろうことくらい私にも容易に想像できた。それに、「好き」だと言ったときの白石くんが嘘や冗談を言っているとはとてもじゃないが思えなかったから。
時にはテレビ画面の中のアイドルのように、時には雑誌の表紙を飾る人気俳優のように、常にと言っても過言ではないくらい普段から人当りの良い柔和な笑みを浮かべている白石くんがあの瞬間、別人のように見えた。睡眠不足の原因は、そのときの白石くんの表情がいつまでもまぶたの裏側に焼き付いていたせいなのは明らかだ。シャンプーをしているときも、布団の中で目を閉じても、おとといのことばかり考えてしまうせい。忘れることにしたのに。忘れてしまいたいのに。

先週から始まった新しいドラマの第2話は、楽しみにしていたはずなのによくわからないまま次回予告になってしまった。主人公たちは1話の終わりで付き合うことになったはずだったが、次回予告ではヒロインが別の男とキスをしていた。いったい何があったのか、テレビから垂れ流しにされていただけのドラマの内容など思い出せるはずもない。結局、ドラマの展開も昨日から出せずにいる白石くんへの返事も、もやもやと胸の内に佇んだまま休日を迎えることになる。

これまで丸二年間皆勤賞だった私が、今日だけは部活お休みしたいなとカーテンの隙間から差し込む白い光をおでこに受けながら思った。昨日の雨はすっかり上がって、気持ちのいい青空が広がっていたけれど、生憎私の心中はそんな晴れやかなものではなかった。碌に眠れなかったのと、まだ少しお尻に痛みが残っていることと、ちっとも忘れられないあの出来事をふいに思い出してしまって。
それでも、部活を休むという結論には至らなかった。それに午前中の部活が終わったら、修理に出していた自転車を取りに行かなければならなかった。それもあって、のそのそと寝ぼけ眼のまま支度をする。鏡の中に映るもう一人の私はひどく眠たそうな顔で、いつもうまくまとまってくれない髪が今日も一束左側に跳ねている。昨日もそうだった、おとといもそうだった、その前も、たぶん。
白石くんに比べて、なんて自分は隙だらけなのだろうと改めて思った。テニス部では補欠にもなれない皆勤賞の幽霊部員で、勉強の成績も優秀なわけではなく、いわゆる『その他大勢』の普通の顔で、男の子に告白をされたことなど、ほんの三日前までは一度だってなかった私を「好き」だと、あの白石くんが言ったことをどうして信じられるだろう。

顔を合わせるのが気まずいというわけではない。返事を聞かれることが怖いわけでもない。もともとあまり縁はなかったのだ、話をする機会も、そうなるきっかけも理由だってなかったのだ、今日部活を休んだところでおとといの出来事がなかったことになるわけではないし、今日部活に行ったところで白石くんに会うとは限らない。
そう言い聞かせたことはどうやら正しかったようで、今日明日と男テニは練習試合で他校に行っているらしい。今日は兵庫の方まで、明日は堺大附属。つまり明日の部活も心置きなく参加できるというわけだ。
どこかほっとしているのがわかって、どれだけ建て前を並べたところで結局のところ私は彼と会うことを心の底で拒んでいるということを自覚した。

だって、話をするきっかけも理由も、今はもうできてしまったので。










さんて、料理とかするん?」
「え、特にしないけど」
「来週調理実習あるやんか。卵焼きらしいけど」
「へえ、そうなんだ」
「たぶん俺とさん同じ班で作るやろ」
「うん、そうだね」
「卵焼きって簡単そうに見えるけど、意外に難しいねんて」
「うん、そんな感じするね」
「味付けもやけど、触感とか、ふわふわがええやんか」
「うん、うん」
「ほんで、ふわふわにするコツ調べてんけど」
「へえ、コツって?」
「お酢ちょこっとだけ入れたら柔らか触感にできるらしいねん」
「そうなんだ」










今頃練習試合だろうか。日中は春らしい陽気に恵まれると言っていたから、気持ちよく試合ができているといいなと思う。大仙公園の桜の見頃は先々週だったので、今はきっともう葉桜になっているだろう。桜の花びらの舞うテニスコートで汗を流す白石くんはとても、とても春がよく似合う。もしかして4月生まれなんじゃないだろうか。

彼が今どこでどういう状況で何をしているか、ということを無意識に想像してしまっている自分に気づいてふるふると頭を大きく振った。水道の蛇口をひねり、ばしゃばしゃと顔を洗う。本当に今日は温かい。身体を動かしているとむしろ暑いくらいで、汗の染みたTシャツがベトベトと身体にまとわりつく感じが気持ち悪い。またすぐに夏がやってくるなあ、と、青々とした桜の葉を見上げながら思った。

昨日の、その前の、その前の日。ここには私と、そして白石くんがいた。
急にあのときの状況がフラッシュバックして、慌ててもう一度顔を洗った。ひんやりと冷たい水が少しだけ熱を解かすけれど、ズキズキと軋む胸の感覚はちっとも収まってくれない。こんなにも白石くんのことばかりを考えてしまうなんて、私は彼のことが好きなんだろうか。いや、好きという表現をいきなりするのはおかしい。だって、三年になるまでまるで接点がなかったのに。会話をしたことも無いのに。席替えでたまたま彼の隣の席になったのが私だった、それだけなんだから。それならばもう少し当たり障りのない表現に言い換えると、私は彼に惹かれているんだろうか。曖昧に誤魔化してみたところで、胸の痛みは小さくならない。

彼の言葉に、うん、と素直に応じていたら、今頃どうなっていただろうか。皆勤賞をあっさりと棒に振って今頃彼の練習試合を観に行っていたんだろうか。そんな自分が、ちょっと想像できない。
白石くんがなぜ私にあんなことを言ったのか、そもそも正気だったのか、私の頭の中でだけでぐるぐると思考を巡らせてみても何も見えてはこなかった。それもそうだ、私にとって彼との始まりはほんの一週間前のことで、この一週間を思い返してみても彼が私にあんなことを言う理由はわからなかった。こればかりは本人に聞いてみないことにはきっと明確な答なんてわからないんだろう。聞けばよかった。どうして私のことが好きなんですか、と。もちろん、どんな答が返ってきたって、合点がいくとは思わない。

明日、山田くんは学校に来るだろうか。
さすがに木曜日から休んで土日挟めば風邪菌だっていなくなっているだろう。そういえば白石くん、土曜日にお見舞いに行くと言っていたけれど、行ったんだろうか。山田くんの風邪を貰っていないといい。
山田くんが来なかったら、明日も白石くんと日直だ。
そう思うと、山田くんに来てほしいような来てほしくないような来てほしいような、やっぱり来てほしくない、ような。私は、どちらを望んでいるんだろう。正直あまり顔を合わせたくないと、思っているくせに頭の中では彼の事ばかりを思い出して、考えて、想像して。
ちょっとおかしいんじゃないだろうか。
あの言葉を私はいまだに信じられないくせに。信頼を寄せる以前の話だというのに。白石くんなら、そうだったら、すごく素敵だなあ、なんて。

思いかけて、やっぱり私は大きく首を横に振った。
濡れた髪から水滴が跳ねてまた私の頬を濡らした。










「昨日午前中は堺大附属と試合やってんけど、午後はオフで。せやからちょっと練習したんやけど」
「え?卵焼きの?」
「うん、卵焼きの」
「へえ、そうなんだ」
「卵焼きはしょっぱい方が好みやねんけど」
「うん」
「醤油と塩と酒とだし汁入れるやんか、ほんで柔らかくするためにお酢入れるやんか」
「うん」
「けど、醤油とお酢入れるんやったらいっそポン酢入れたら無駄ないんちゃうか思て」
「えっ ・・・うん、そうなんだ」
「やったら意外とええ感じで」
「そうなんだ」










4月15日(月)晴れ
日直:白石、(担当)
欠席:山田
遅刻:なし

山田くんは今日も欠席。土曜日に病院へ行ったところ、風邪ではなくインフルエンザだったことが判明したらしい。
見舞いに行ったときに山田くんのお母さんがそう教えてくれたみたいです。びっくりした。
今は花粉症に苦しんでいるひとが多いけれど、私は平気です。
来週は調理実習があるから、今から楽しみ。
そういえば昨日、部活の帰りに商店街の方でオサム先生を見かけました。

ボケて:オサム先生ってまだ27らしいですよ






書き終えて、日誌を閉じる。白石くんは黒板消しをかけながら後ろ姿で私と会話をしていた。私の仕事が終わってもなお白石くんが黒板消しをかけているなんて珍しいこともあるものだ。もちろん、私に与えられたのは日誌を書くことだけなのだけれど。

白石くんと顔を合わせるのが気まずかった土日が嘘みたいに、あっさりと私はまた彼と日直をしている。
木曜日のことについて、何かを聞かれることはなかった。それを匂わせるようなことさえ、何一つ。

「気ぃついたらときには結構な量作ってしもて。ほんならオカンに卵買うてきてって言われて」

朝、おはようと言って笑い、休み時間、黒板消しの届かない高いところを何も言わずに消してくれて、5時間目、うっかり忘れてしまった社会科の資料集を「ええよ」と言って見せてくれて、今、卵焼きの話をしている白石くんに、私はおもしろい返事を一つも返すことができない。 驚くほど彼は『普通』で、当然ながら私はまだ木曜日のことを考えている。忘れろ、ということなんだろうか。あれはなかったことにして、また一週間前と同じように接してくれたらええから、とかいうことなんだろうか。 もしもそうだったら、と考えてみるととたんに胸がざわざわとしてくる。

忘れてしまいたいと、あれだけ思っていたくせに。

「うん」
「あとついでに商店街のケーキ屋で予約しとるケーキ取ってきてって言われてんけど」
「そうなんだ」
「自分のバースデーケーキ自分で取りに行くって、おもろいよなあ」
「え」
「ん?」
「自分のバースデーケーキ?」
「ん、ああ、うん」
「誕生日?」
「俺な、誕生日やろ、昨日」

え、知らないけど。

思わず飛び出しそうになった言葉をすんでのところで呑み込んで、「へえ、そうなんだ」慌てて笑顔を作ると白石くんが突然くるりとこちらを振り返ってそして穏やかに目を細めるので、心の中を読まれているような気分になった。なんでもない風に笑い返すと「せやから」白石くんも何事もなかったように言葉を継ぐ。
「一つだけ、俺のお願い聞いてくれへん?」

向けられていた背中が消え、代わりに真っ直ぐな白石くんの目が視界の中心を陣取る。黒板消しを置き、こちらに近づいてくるスピードが妙にゆっくりしていて、それが逆に私の心臓のドキドキを加速させる。

「言うてほしいんやけど」
「え」
「お祝いの言葉」
「あ」
「ええ?」
「えっと、うん」

途端に真実味を帯びてきた木曜日の出来事と、白石くんのあの言葉が一気に頭の中を駆け巡る。白石くんの声で再生されるその言葉たちは何度も何度も反響して次第にそれしか考えられなくなる。そうしているうちにいつのまにか白石くんは私の腰かける一つ前の椅子に後ろ向きで腰かけて、頬杖をつきながら柔らかく細めた瞳に見つめられてしまっていてもう、彼のことしか見えるものが何もない。彼のこと以外考えられない。
「誕生日おめでとうございます、白石くん」

いったい彼の、どこをどう見たら『普通』だというのだろう。
おめでとう、の言葉を噛み締めるように、くしゃっと破顔した。こんなにも隙のある彼を、初めて私は知った。

「・・・ありがとう、さん」

だからあの目もその声もこの笑顔も全部を、私は一生忘れられそうにない。



(Believe you, trust you, and forget all thing / 白石蔵ノ介)



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