最初は、ただ傍観してただけだった。
記憶が定かであればその日はその年一番の暑さで、湿気とも相まって熱中症の危険が示唆されていた。そのようなニュースが携帯の画面に流れてくるのを、冷房のよく効いた部屋で冷たいカウンターに突っ伏しながらぼんやりと眺めていた。夏休みの図書館利用者は大半が三年生と、あとは真面目な二年生で、もともと他人の顔と名前を覚えることがあまり得意でないこともあり、訪れる生徒の九割は知らない知らない顔か、あるいは顔を見かけたことくらいはあるような気もするが名前や部活などとは結びつかないような顔ばかりだった。

一方で、その日一緒に図書委員の係をやっていた二年生の鈴木先輩は訪れる生徒訪れる生徒に笑顔であいさつをしていた。鞄にサッカーボールのキーホルダーをぶら下げたひとには「よう」と爽やかに手を上げ、アメフト部っぽい人には「お疲れっす」と力強く拳を握り、ユウジ先輩らとよくつるんでいるお笑い研究部員っぽいひとには「儲かってまっか?」なんておどけて笑っていた。無論、そのお笑い研究部員っぽいひとは「ぼちぼちでんな」と笑い返してから自習机の方へと歩いていく。顔が広い先輩なんだろうな、と思った。イケメンに分類される顔つきと身長の高さと社交性の良さはうちの部長を見ているようだったが、笑いの面で比較してみるとたぶん、こっちの先輩の方が高いスキル持ってるんだろう。比較対象がアレなのだからあまり嬉しくはないかもしれないが。

図書室の自習机がほぼほぼ埋まったところでやってきた一人の女子生徒に鈴木先輩は「あ、さん」声を掛けた。
さん、と呼ばれた女子生徒の顔を見たのはおそらくこのときが初めてだった。ちっさいな、と思った。椅子に腰かけた自分と視線の高さが同じということはもちろんないが、背の順で並んだら少なくとも半分よりは前に並ぶのは確実だ。

さんも自習しに来たん?もう席だいぶ埋まってるから座られへんかも」
「あ、ううん。違うの。借りたい本があって」
「あ、そうなんや、ならええんやけど」
「うん、ありがとう」

短い会話だった。
てっきり『さん』は一年生かと思ったがどうやらそうではないらしい。鈴木先輩に敬語を使わないところを見るとおそらく彼女も二年生で、つまり自分よりも先輩だということだった。小さい背中は奥の本棚の陰にあっという間に消えていった。





少しして、また『さん』がカウンターの方へと小走りで近寄ってきた。お目当ての本がもう見つかったのかと思ったが、その手に本はない。

「鈴木くん、鈴木くん」

どこかはにかみながら鈴木先輩の名前を呼ぶと、「あのね、ちょっと本を取ってもらいたいんだけど」図書館での会話らしい小声で『さん』が言う。この場合、場所など関係なく声のトーンを落としただけかも知れなかったが。
お目当ての本が見つかったは見つかったが、背が低いせいで手が届かないらしい。背の高い本棚の近くには脚立が設備されているはずだったが、気が付かなかったのだろうか。それとも、脚立を利用してもなお手が届かなかったということだろうか。

「あれ、脚立置いてあるやろ、近くに」
「う・・・うん、あったけど」
「あー・・・もしかしてさん、脚立乗っても手ぇ届かへんかったん?」
「そ そんなことないよ! ・・・脚立あったの?気づかなかったなあ、あはは」

想像してみて思わず笑いそうになったが、彼女にとっては笑いごとではないだろうし、そして何より先輩たちの会話に耳を傾けている自分というのがなんとなくばつが悪いと思ってなんでもない風を装いつつ携帯の画面を眺めていることにした。

「しゃーないなあ、今日は特別大サービスや」わざとらしいセリフを吐いた後で、「ほんならちょっと見ててな、財前くん」そう言い残すと鈴木先輩は『さん』の後ろをついていった。
ほどなくしてカウンターへと戻ってきたのは鈴木先輩一人だった。奥の本棚をちらちら窺っていると「脚立で届く範囲の本にしとく、言うてたで」不意に隣からそんな声が聞こえるので一瞬動揺してしまった。「・・・はあ、そっスか」やはりなんでもない風を装いつつ短く返事をする。「おもろいよなあ、彼女」それでもまだ鈴木先輩は『さん』の話を続けようとするので「そっスね」また俺は何でもない風を装いつつ無関心に返事をする。



正直、そこまで、おもろいというわけでもない。背が低いので、サイズとしてはかわいいと言えるかもしれないが、それをいうなら飼育小屋のうさぎの方がよっぽど可愛いと思う。
それでも、や。理由なんてないし、もしあったとしてもそんなものは後から付いて回るものだ。だから。

このとき彼女に感じた何かを、夏が終わり秋が過ぎ冬が訪れ春が来た今でも鮮明に覚えているのはたぶん、そういうことだ。











あの日は特に寒かった。 正直家から一歩も出たくないレベルの寒さだったが、午後から予定が入っていたので仕方なく出かける支度をする。一歩外に出た瞬間から一気に冷えてしまった体を温めてから待ち合わせ場所に行こうと立ち寄ったいつもの喫茶店の扉を開くと、いつも自分が腰かけている奥の席のさらに奥に見慣れない顔を見つけて一瞬足が止まり掛けたが、何事もなかったようにいつものソファに腰を下ろしたところでしまった、と思った。 会いたいと思わなければなかなか会えるようなものでもない。学年は違うし、運動部では見かけない顔となれば偶然にすれ違う可能性もぐっと下がる。だからと言って積極的に自分から会いに行こうと思うような性格ではないし、そもそも彼女の方はきっと俺のことなど覚えていないだろう。別に、それでよかった。良かったくせに、こんな場所で、こんな風に彼女と―――『さん』と向き合うことになってしまっていることと、私服姿でもすぐに彼女だということがわかってしまったことにひどく戸惑っている自分がいた。

反対側のソファに座ればまだ少しはマシだったかもしれない。けれどいつもの調子でこちら側に座ってしまったせいで真っ直ぐ正面など向けるはずもなく、そうなると窓の外の商店街を眺めているぐらいしか目の行き場がなかった。
両耳のイヤホンからは昨日入れたばかりの新曲が流れてくるのに、なぜか自分の心臓の音が聞こえてくるような気がしてなかなか音楽に集中できない。落ち着かせるためにまだ熱いコーヒーを流し込んでみたが、いつものよりもなんとなく甘く感じてしまいやっぱり落ち着かない。

テーブルを二つ挟んだ正面からひどく視線を感じるせいで窓の外の景色から目を離すことができなかった。
商店街を歩くひとたちはみんな一様に肩を丸めて歩いている。家を出るときは晴れていたのに、傘を持って歩くひとの姿がちらほら目に入った。今夜は雪でも降るんだろうか。そんなことになれば明日の朝練はできれば休みたいところだ。明日と言えば、2時間目の古典は小テストがあるんだった。面倒くさい。古典の授業なんてなくなったらええのに。











あれっきりだとばかり思っていたのに。
彼女のこの店の利用頻度がどの程度のものなのかは知らないが、結構な確率で彼女と遭遇することが何度もあった。図書館ではあれ以来一度も彼女の来館と俺の係の日は重ならなかったというのに、おかしな偶然もあるものだ。
会いたいと思わなければなかなか会えるようなものでもないということは、会いたいと思えば何度でも会えるということだろうか。・・・いや、会いたいと思っているわけじゃない。単にここのコーヒーが好きで、ここが一番落ち着ける場所なだけだ。

一番落ち着ける場所であるはずなのに、最近はあまり落ち着くことができなくなっていた。騒がしい客がいるわけでも、新しいバイトが入ったわけでもない。テーブルを二つ挟んで正面に座る彼女がいるせいだ。この店での彼女は静かなもので、いつも一人で大人しく何やら小説を読んでいる。文庫本がほとんどだったが、ときどきハードカバーの本も読んでいる。うちの学校の図書館の本であるということを示すシールが裏表紙と背表紙に貼られているところを見ると、やはり彼女は俺の係の日でないときに図書館へ訪れているんだろう。

コーヒーカップにひとつ角砂糖を落とし、ティースプーンでぐるぐるとかき回す。砂糖がゆっくりとコーヒーの中に溶けていくのが好きだった。甘いコーヒーを好むわけではなく、単に溶けていくのをときどき見たくなるだけだ。
彼女はその風貌らしく、いつもカプチーノを注文しているようだった。白い泡の上に描かれた絵を見て喜ぶ笑顔は、少しかわいいなと思う。

彼女がよくこちらを見ているせいで、俺はいつも面白味のない商店街を眺めることになるが、それにしても彼女は気が付いていないのだろうか、俺がその視線に気が付いているということに。
何が面白いのかは知らないが、彼女は真っ直ぐ正面を向いて座り、まじまじとこちらを、おそらく俺のことを見ている。試しに角砂糖で遊んでみると彼女の視線が少し下がってその様子をじっと追っているということがあったから、たぶん確実だ。猫じゃらしを追いかける猫みたいで、少しおもろいなと思う。

あるとき彼女が俺と同じようなことをして角砂糖をばらばらにしてしまったことがあった。
砕ける音に反応して思わず正面を向いてしまったが、彼女の視線は完全に机に散らばった角砂糖に向けられていて少しほっとする。それをいいことに、慌てて砂糖を拾い集めている彼女の様子を眺めていると不意に顔を上げた彼女と目が合ってしまった。目が合ったのはこの時が初めてだ。
一応は同じ学校の先輩なのだから会釈をするべきかとも思ったが、彼女の方はいつもこの店にいる自分がまさか同じ学校の後輩だとは思っていないはずなので、また視線を商店街の方に向けた。今日も窓の外は面白味もなく流れている。やっぱり正面を向いている方が、きっと、ずっと、おもろい。
そう思って彼女の方に視線をやると、彼女はまた、こちらを見ていた。











会えなくても構わないという気持ちがいつの間にか会いたいという意志に変わっていたのと同じで、気づいてもらえなくても構わないという諦めにも似た気持ちはいつの間にか自分の居場所を教えたいという欲求に変わっていた。その意思表示が制服だった。自分はあなたと同じ学校なんですよ、と、制服に校章をしっかりと付けていつもの喫茶店へ向かう。

柄にもなく深呼吸を一度してから店に入ったが、彼女の姿はなかった。待ち合わせなどしているはずもないので、いるという保証もなかったし来るかどうかも知らないが、これから制服で店へ行くようにすればそのうちまた彼女とはち会うだろう、と、いつものようにイヤホンを鞄から取り出したが、なんとなく今日は音楽を聴く気分ではなかった。運ばれてきたコーヒーカップの中に、角砂糖を一つ落としてクルクルと回す。すぐに溶けてしまったそれが今日に限って名残惜しく、もう一つ角砂糖を手にしたところでカランカランと鐘の音が後ろ方から聞こえた。

「出来過ぎてる」

そんな声が聞こえて、思わずクルリと後ろを振り返るとその声の主は今まさに会いたいと思っていた人物であり、そして薄い黄色の制服を身に着けた彼女は否応なしにあのときの、初めて彼女と出会った時のことを、思い出させた。
あの時は夏だった。何もしないまま秋が過ぎ、冬が訪れ再び彼女と出会い、そして春が来た。彼女がどんなつもりで出来過ぎだと言ったのかはわからないが、同じ日に同じタイミングで同じく制服を着てきたことは、なるほど出来過ぎている。本当に。

「出来過ぎやな」

ぼそりと独り言つと、彼女は早足で俺の腰かけるテーブルの横をすぎていき、いつものテーブルのいつもの場所に座った。正面を向いたまま、じっと彼女と見つめ合う。カップに入れ損ねた角砂糖をソーサーの上に置きそのままゆっくりとカップに口を近づけると、ひどく甘ったるいミルクの香りが鼻を抜けた。



(コンデンスミルクの浴槽 / 財前光)



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