一度考えてしまえば、あとはもう、その引っかかった紐を軽く引き寄せるだけで、ずるずると先輩との思い出が掘り起こされてしまう。どうにも怪しい、と思っていた空はいよいよ重たい雲が覆い、降り出すのも時間の問題だった。カラン、と外で何かが飛ばされる音がする。やけに風が強い。 次の授業のノートと教科書を揃えて机の端に置く。それからもう一度気になって窓の外を見やれば、「降るな」と隣りから小さく声が落とされた。振り返れば、財前くんが頬杖をつき同じように外を見ている。イヤホンが片方外されていた。 「降るかな」 「降るな」 「困るな」 「橋の下やろ」 「でも・・・」 それでも、きっと私だったら、心細くなる。ただでさえ心の中が重たく淀んでいるのに、雨に降られたらたまったものではない。残酷だろうか、偽善だろうか。私は本当に、猫の心配をしているのだろうか。 箱の中で生活しているのは、誰だ? * 綺麗にラッピングを施した箱の中には、打算や下心や純粋な恋心、様々なものが詰められていた。 接点は委員会しか無く、その日は残念なことに委員会が無かった。わざわざ先輩の姿を一日中探して、見つけて、少しだけ時間をもらって。あくまでもさりげなさを装ったけれど、綺麗なラッピングとわざわざ一人だけを呼んだところ、私が先輩だって気が付けた。 「ありがとう、」 先輩はそう言ってくれた。困ったように笑って。受け取ってもらえただけで嬉しくて、告白をすることすら出来ず私も釣られるように笑っていた。もしもあのとき告白をしていたら、最悪のタイミングで彼の隣りを歩くあの人を見かけずに済んだのに。フラれてから一ヶ月も経てば、見かけても、どうってことなかったはずなのに。 ・・・果たして、そうだろうか? まさしく一ヶ月後である現在の私が問う。 自然とため息が零れた。これは過去の私だろうか、現在の私だろうか。 共通していることは、どちらの私も、幸せなんて持ち合わせていないというところだ。きっとあのラッピングされた箱は、昔の話に出てくる、よくない箱だったのだ。 * 日が傾き始めた頃降り出した雨は、放課後にはすっかり土砂降りになっていた。「こちらには来ないと思っていた台風が近づいているようなので、気を付けて帰るように」と言われた程度の雨だ。 生徒たちはさかさまになってしまう傘に叫び声をあげながら、身を寄せ合って下校している。安全のため、部活動はすべて中止にされていた。 こういったとき、ひどく悲しむ人物を一人知っている。 何となく気になり二年の教室に足を運べば、「金ちゃんならさっさと帰ったよ」らしい。 あのにゅっと伸びた手足で一体どこへ行ってしまったのだろう。彼なら一人でも部活動をはじめそうだが、窓からテニスコートを見下ろしたところ、音を立て飛ばされていくカゴしか見当たらなかった。 考えないように、何も余分なことを、考えないように。 置き傘をぴったり頭と背中に張り付けてガードしながら、そっとカゴを追いかけた。一層強い風が吹き、スカートが舞い上がる。どうせ誰も気にしていないだろうから、私も気にしなかった。追いかける、追いかける。ひとりぼっちでコート上に取り残されていたしまい忘れのカゴを、数分たってようやく拾い上げることが出来た。何でもこうやって、何も考えずに拾い上げることが出来たらいいのに。偽善でも何でもなく。 合鍵を使って部室に入り、カゴをタオルで拭いてから元の場所に戻した。ついでに自分の制服も拭く。 『先輩へ。いつもありがとうございます』 綺麗にラッピングされたあの箱に添えたカード。 『かわいがってあげてください』 みかん箱に書かれた、受け取られないメッセージ。 さっきから、二つの文字ばかりがチラチラとうるさい。 みゃあ、猫がひと鳴きする。 * 走っている道中、傘の骨が折れ、使い物にならなくなった。部室から拝借したままのタオルで頭を覆い、折れた傘を抱えたまま走る。見覚えのある河川敷。遠くに見える橋。あれの下。 雨を含んだ川は普段よりもずっと水位をあげていた。真黒くうごめくそれに竦み上がりそうになるも、なるべく見ないようにして走った。 橋の下、段ボールが見える。何をしているのだろう。偽善だろうか、同情だろうか、私は私を救いたいだけなのだろうか。拾ったところで、どうしようも出来ないくせに。余計な期待ばかり、持たせてしまうくせに。 濡れた芝生でローファーが滑り、そのまま一気に下まで転がり落ちた。最悪だ。もう、全部全部、最悪だ。私の幸せは本当に、どこへ行ってしまったのだろう。どうやったら帰ってくるのだろう。 立ち上がり、段ボールの近くまで歩く。心なしか、この風で位置が移動している。すっかりしおれたそれの中を覗き込む。 猫の姿は無かった。 * 「あれ、や」 川の音だけを聞きながら橋の下でうずくまっていると、聞き慣れない声が落ちてきた。私が聞き慣れた彼の声は、少し前までずっと高かったのだ。まるで男の人のような声に、おそるおそる顔を上げる。想像以上に顔を上げなければ伺えない、やはり記憶の中とはずいぶんと違った、彼がいた。 「どないしたん?迷子にでもなったん?」 彼は私のすぐ隣に腰を下ろす。髪の毛からは絶えず水滴が落ちていた。必要以上にこちらをまっすぐ見つめる瞳。雨の日でも変わらず明るい髪色と、声色。「きんちゃん」なぜだか安心感が体中を襲って、そのまま涙となって溢れだした。 一ヶ月、ずっと張りつめていたものが弾けて、わあと叫ぶように金ちゃんの胸にしがみつく。「猫が、猫がね」しゃくりあげる。「ここにいたんだけど、いなくなっちゃって、猫が」私は何に対して泣いているのだろう。フラれたことだろうか、猫を見捨てたことだろうか、あのかわいそうな小さな存在に自分を投影してしまったことだろうか。どうしてこの場所は、こんなにも生き辛いのだろう。 金ちゃんはしばらく私を放っておいてくれたけれど、少ししてから、頭を乱暴に撫でまわした。私の頭など簡単に覆ってしまうくらい、おおきな手。 「猫さんおらんくなったん」 「うん」 「シマシマの?」 「・・・うん」 どうして知っているのだろう、疑問に思いぐちゃぐちゃなまま顔を上げると、けれど金ちゃんは私の顔をみても笑わなかった。いつも通りに、私の目ばかりジッと見ている。 「なら、財前が持っとったで」 「・・・・・・え?」 「さっきそこですれ違ってん」 パチパチと繰り返す瞬きと一緒に、大粒の涙が落とされ、それきり出なくなった。 ワイも急いでたから話かけなかった、というような、彼にしては珍しすぎる一連の流れも説明され、クエスチョンマークが飛ぶばかりだった。もう川の音すら聞こえない。 さよか、と興味なさそうに言っていた財前くんが、助けてくれたのだろうか。 あの捨てられた、箱の中のかわいそうな小猫を。 「・・・・・・そっか。そっか、財前くん・・・が!?」 物思いに耽りながらうつむいた途端、口の中に何かがつっこまれた。思わず咀嚼してしまい、それが冷え切ったたこ焼きだとわかる。 金ちゃんといると本当に、わけのわからないことばかりだ。裏も表もない彼の、唐突なペースにすぐ引き摺られていく。この紐に、しっかり捕まらなければ。 すっかり飲み込んでから唖然とする私を確認して、金ちゃんはどこか誇らしそうに笑んだ。 「ため息ついたら幸せ逃げるんやろ。ワイ、たこ焼き食べるとめっちゃ幸せーなんねん」 「ええと・・・それで、わざわざ?」 「焼きたてがうまいんやけど、どっこもおらんし」 注意してみると、確かに彼の膝の上にはたこ焼きが詰められたプラスチックの箱があった。すっかり濡れたのだろう、彼と同じく、未だに水滴をぽたぽたと落としている。 お腹が満たされると、冷静になれる気がする。ようやく彼が濡れ鼠になっていることを思い出し、持っていたタオルでわしゃわしゃと拭いた。大きくなった犬のような彼は、「おーきに!」とご機嫌そうだ。時折たこ焼きを口元に持ってこられるので、拭きながら口を開ける。咀嚼する。彼のお気に入りのお店なのだろうか、冷めていても十分おいしい。 「な、よう分からんけど、元気になってな、」 いつもの笑顔で明るくそう言ってから、途端に「あ、いや、えーっと」と言葉を詰まらせ、私の様子をうかがうように覗き込むと、きゅっと手を握って、彼にしては珍しく、くすぐったそうにはにかんだ。 「元気になってください、せんぱい」 何だかやっぱりおかしい、と。思わず笑ってしまった。 河川敷の橋の下に小猫がいた。近づいてみると、みゃあ、と小さく鳴く。 以前とは違う筋張った、そのおおきな手のひらの中で。 |