河川敷の橋の下に小猫がいた。近づいてみると、みゃあ、と小さく鳴く。
『かわいがってあげてください』と書かれた、みかんの段ボール箱の中で。









世界の終わりというほどつらく哀しいわけではなかったけれど、一か月やそこらで簡単に忘れられるようなものでもなかった。うまくいくとは正直思っていなかった。勝算なんてあるはずもないし、むしろ万に一でもうまくいってしまっていたらそれはそれで困っていたと思う。それでも、やっぱり好きだったんだと思う。先輩のこと。
卒業式の後に告白だなんて、まるで小説の中のお話みたいで滑稽だな、と、ふられた後に思った。「ごめんな、」困ったように先輩が笑うから、私も釣られて笑ってしまった。だって、先輩のその顔は、さらに一か月前、バレンタインデーのときに見せてくれたものと同じだったから。あのときの先輩は「ありがとう、」そう言ってチョコレートを受け取ってくれたけれど、内心は卒業式の後と同じだったのかもしれなかった。受け取ってくれたチョコレートの行く末なんてきっと知らない方がいい。

委員会が同じだっただけの先輩のどこに私は惹かれたのか、未だによくわからない。ひとを好きになるのに理由なんてないとはよく言ったもので、なるほど私が先輩のことを好きなのは仕方がないことだったのだなと思うと、先輩が私を好きでないことも仕方がないことなのだなと妙に納得してしまった。

自分の「好き」という気持ちと、相手の「好き」という気持ちが交わることなんて、きっとそうそうないんだろう。だって、先輩の好きなタイプは自分よりも身長が低く、明るく活発で、嘘をつかない子だと聞いたのに、そのどれもに当てはまるだろう私のことは好きでないという。そのくせ、卒業式の後先輩の隣を歩いていたのは、先輩とほぼ同じくらいの身長で、髪が長く大人っぽいイメージの、帰宅部の先輩だった。その人が嘘をつく人なのかどうか私は知らないけれど、結局のところ好みのタイプなんてものは全くアテにならなくて、「好き」という気持ちにはさほど影響しないのだなと思い知らされた。

なんとなく裏切られたような気分になって、だけどそれはただの逆恨みみたいなものなんだとすぐに気が付いた。別に、お付き合いしていたわけではない。ただ、私が先輩のことを好きだっただけだ。ただ、先輩は私のことが好きじゃなかっただけだ。それだけのことなのに、自分なりに、それなりに、大切にしていた「好き」という気持ちがただの一方通行で終わってしまったことが少しだけ淋しかった。

いらない、と、捨てられてしまったような気がして。




「4回目」

すぐ近くでそんな声が聞こえて、声のした方を振り向くと遠山くんが白い歯を見せて笑っていた。

「え?」
「ため息」
「・・・どうしてそんなの数えてるの」
「こないだ部室で財前が言うててん。藤生最近ため息多いなー って。せやからワイ、数えてん。のため息」

そう言って、遠山くんが得意げに笑う。三年生が引退してからぐんぐんと身長が伸びた遠山くんはいつの間にか視線がだいぶ高くなっていて、目を見て会話をしようとすると少し上を向かなければならなかった。サイズが大きくなった真新しいジャージがなんとなく眩しくて目を細める。女の子のため息の回数を数えるだなんて感じの悪いことを遠山くんがするなんて、外見だけでなく中身も大人になってきたということだろうか。ただ、無邪気な笑顔を見ていると嫌味でも皮肉でもなんでもなく、遠山くんにとってはただのレクリエーションのようなものなのかもしれなかった。だって、真面目に数えていたらきっと4回どころじゃ済んでいないだろうから。

「『先輩』でしょ」
「えー?」
「遠山くんももう先輩なんだから。私のことも財前くんのことも『先輩』ってつけなきゃだめ」
「なんでなん?やし、財前は財前やんか」
「一年生が真似するでしょ」

もっともらしい理由を並べたところで遠山くんが素直に従うわけもなく、「ま、そんときはそんときや!」いつもの笑顔でかわされてしまう。自分が先輩だという自覚がないのかと思えばそうでもなく、入部したばかりの一年生の面倒は人一倍よく見てくれるし、力加減というものも覚えたらしい。これはすごいことだと思う。

「なあ、ため息つくと幸せ逃げるってホンマ?」

ふいにそんな質問を投げかけられて返事に詰まってしまう。当然だ。ため息を何度もついている女の子に対して、ため息をつくと幸せが逃げる、という説の真偽を直接問いかけるなんて、こんなことができるのは、許されるのは、たぶん遠山くんだけだと思う。無邪気というか思慮に欠けるというか、この場合は後者一択だ。

「どちらかというと、幸せが逃げたからため息が出るっていうか」

それでも、悪気なんてものはあってないようなものなので、だからこそ私も素直に返事をさせられる。嘘はつけない性格だし、つけたとしても遠山くんにだけは嘘をついてはいけないような気がする。

の幸せどこ行ったん?」
「・・・どこかな、消えちゃったかな」
「ふーん」

適当に返事をすると、適当な返事が返ってきて、会話が終わる。
だから遠山くんは好きだ。興味があることと、どうでもいいと思ってること、見たらすぐにわかる。裏も表もない。嘘も本当もない。本音も建て前もない。ただ、目の前にいる遠山くんがすべてなのだ。

みんながみんなこうだったなら、ただ捨てられるだけの感情なんてきっと生まれなかったのに。









「財前くんって猫飼ってるっけ?」
「いや、飼ってへんけど」
「じゃあ、猫は好き?」
「・・・まあ、どっちか言うたら動物は好きな方や」

隣の席の財前くんは、こちらを見向きもせずに淡々と答える。ちらりと隣に視線を向けると、ノートに何やら音符のようなものをいくつか書いていた。私は私で次の授業のノートやら教科書やら資料集やらを机の中から取り出しながら話しかけていたのでお互い様だ。

「ふうん、そうなんだ」

そう返事をしてまた、ため息を零してしまった。財前くんの返事に不満があったわけではないし、一か月前のことを思い出していたわけでもないのに、もう癖になっているのかもしれない。できれば今すぐに直したい癖だった。ふと、今朝遠山くんに投げかけられた質問を思い出した。の幸せどこ行ったん? 私の方が聞きたいくらいだ。

私のため息に反応したのか、財前くんの切れ長の目がこちらを向いたので、「ごめん」と謝ると「別に」淡泊な返事が返ってくる。どうでも良さそうにノートに向き直る財前くんを「あのね」引き留めると、今度はペンを置いて首をこちらに回した。

「何」
「河川敷があるでしょ。ほら、緑地公園に向かう途中に」
「あるなあ」
「昨日ね、その河川敷を歩いてたんだけど」
「ふぅん」
「橋の下に小猫が捨てられてた」
「・・・・・・」
「みかんの段ボール箱の中で鳴いてた」
「・・・さよか」

一言、それだけ返事をするとまたペンを取った。私は私で、だからどうしただとか、何を言ってほしいだとか、この先を継ぐような言葉は用意していなかったので、何も言わず、机の中から取り出したノートと教科書と資料集を揃えて机の端に置いた。

捨てられた子猫は今頃どうしているだろうか。今日また見に行ったら、段ボールの中で鳴いているんだろうか。飼えもしないのに可愛がるのは残酷だ。拾う気もないのに気にかけるのはただの偽善だ。わかっているのに、昨日から私はあの捨てたれた小猫のことばかり考えてしまう。

きっと、その中で生きるのは難しいと思うから。



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